賞品は私に頂戴ね。
彼女はそう言うと、どこで調達したのだか知らないが、紺色の自転車に乗ってふいふいと去って行った。
まわりはおかしな格好をした人であふれ、
真面目にランナースタイルをしている自分だけが浮いているようだった。
緊張感なんて全く感じられないスタート地点には、
これからフルマラソンを走ろうという覚悟など見当たらず、
あんたの衣装はイケてるだとか、
私の目標は一か所一杯だとか、
そんな会話ばかり。
いつものことながら、
ミュウの誘いに振り回されっぱなしの私だったが、
今回はちょっとは私のことを考えてくれているんじゃないかな、
なんて、
詮無いことを考えながら、
気がついたら、皆走りはじめていた。
お祭り騒ぎのポイヤック。
仮装行列はのろのろと小走りを始める。
世界一長いマラソン。
そう、地元の人間は胸を張って言う。
距離ではない、時間。
なんせ、三日かけて完走する人がいるとかいないとか。
ゲートが閉められたってお構いなし。
なんとなくゴール地点は残っているから、そこに向かって走ればいい。
フランスのメドックをぐるり一周するこのマラソン大会は、
給水個所が20以上もある。
そして、そこに置かれているのは水やスポーツドリンクばかりではなく。
いや。
それを隅に追いやるくらいに並ぶ、酒。
そして、つまみ。
それぞれの地域のワインが並ぶ。
試飲会なのだか仮装大会なのだかマラソンなのだか。
メドックマラソンに応募したのはミュウだった。
自分は走らないくせに。
日本じゃまだ飲んじゃダメでしょ?
この半年前。
ミュウがある日、夜中に私を呼んだ。
いつもなら、薄暗い研究室に呼ぶくせに、
その日は外だった。
自転車で彼女の指定した古墳跡に着いたのは、
夜中の二時。
彼女は小高い丘のようになった古墳の上に座っていて、
私に気付くと、懐中電灯をちっかちっかさせて呼んだ。
「夜は出られないって!
おばあちゃんがきっと明日私にお仕置きする」
「出られるじゃない。
ま、座って」
座るなり渡されたのは、
見たことがないくらい薄くて大きなガラス細工だった。
風鈴をもっともっとのばして柄を付けた、
それはワイングラスだった。
ぎょぼっ
コルクを抜くと彼女はそれをだぶだぶとグラスに注いで、
自分のそれにもそれとおんなじ量、
適当な手加減で的確に注いだ。
「はー・・・・
この日を待っていたのよね・・・」
口を付けずに、付けそうになりながら、でも付けずに、
でも、付けたい、微妙なラインをかろうじて保ちながら、
彼女は言った。
「これ・・なに?」
「なんだろうね、私にもわからないわ」
薄い月明かりの中、
目を合わせながら、じっとお互いを見ながら、
そっとガラス細工に口を付けた。
息ができない。
真っ黒に見える液体がものすごいボリュームで肺の中に迫り、
私は息を詰めてそれを含んだ。
瞬間、むせて咳きこんだ。
息を吸い込んでも吸いこんでも肺に入らず、
体の中のいろんな部分がそれを拒絶するような時間が続いた。
手の中のガラス細工を壊してはならないという妙な責任感だけが支配した。
それを胸に抱いたまましばらく咳きこんだ。
けーほ
こんこん
しゅーけっけっ
はっ
はっ
はーーーくっくっ
けほけほ・・・
その間中からみつく香りから逃れようと必死だった。
ようやく落ち着くと、
ミュウはこっちを見て笑っていた。
こうやってするんだよ。
そう言って彼女はそれはおいしそうにそれを飲み下した。
手の中にある黒い液体を、私は知っている。
口にするのは初めてだった。
なんとキツイものを体に入れているんだ。
そんなもの飲んで頭おかしくならないか。
いや、きっともうおかしいんだ。
そんな軽蔑の眼で彼女を見ていると、
彼女は歌い始めた。
「何の歌?」
「葡萄農夫のうた」
「私、これ、好きになれると思う?」
「今晩、それが好きになったら、フランスに行こうか」
「嫌いでも行きたい」
「好きじゃなきゃ意味ないもん」
「なんやそれ、好きになれっていうこと??」
「なれって言ってもならないでしょう?」
「好きも何も、なんだこれって感じで・・・」
「恋の始まりはむせるところからはじまったりして♪」
「なんやのもー!」
「ほれ、そろそろ開いてきたよ、そーっとね・・・」
20キロ地点を超えるまで、各給水地点にある、もの、には手を出さなかった。
フルマラソンは数回走っているものの、
これからが正念場というときに、
紺色の自転車のミュウが現れた。
へらへらしながら、うまそうに飲んでいる。
こっちに気付いて、ひらひら手を振る。
手を上げようとして、こけた。
べしゃっと、周囲の仮装軍団は歓声をあげた。
起き上がれない。
給水所のスタッフが近寄り、何かフランス語でしゃべっているが何を言っているのかわからない。
ミュウはよろよろと近づいてきて、
「リタイア、する??」
にっこり笑ってそう言った。
そして手に持ったグラスを差し出した。
彼女の手からグラスを奪い取ってそれを一気に飲んだ。
「聞こえない」
そして再び走り出した。
走るというのか歩くというのか。
それからの15キロは地獄だった。
地獄とはまるで夢の中のようだった。
思うように体が動かず、
景色だけがまわっている。
走っているようないないような、地に足がついていないようで、こけて。
傷だらけになってゴールにたどり着いたころには、
それまで酔ってふわふわしていたのも冷め、
捨てたいくらい重い体だけがあった。
九月のヨーロッパはもう日が暮れるのも早く、
黄色い光の中に仮装行列が何かを歌い踊っていた。
ああ、彼女が歌っていたやつだ。
ぐったりと横になった私をミュウは拾って、
何も言わないで宿に帰り、
何も言わないで朝まで過ごした。
よく朝。
水を飲んで苦いと言った私に彼女はまたグラスを渡した。
彼女はそう言うと、どこで調達したのだか知らないが、紺色の自転車に乗ってふいふいと去って行った。
まわりはおかしな格好をした人であふれ、
真面目にランナースタイルをしている自分だけが浮いているようだった。
緊張感なんて全く感じられないスタート地点には、
これからフルマラソンを走ろうという覚悟など見当たらず、
あんたの衣装はイケてるだとか、
私の目標は一か所一杯だとか、
そんな会話ばかり。
いつものことながら、
ミュウの誘いに振り回されっぱなしの私だったが、
今回はちょっとは私のことを考えてくれているんじゃないかな、
なんて、
詮無いことを考えながら、
気がついたら、皆走りはじめていた。
お祭り騒ぎのポイヤック。
仮装行列はのろのろと小走りを始める。
世界一長いマラソン。
そう、地元の人間は胸を張って言う。
距離ではない、時間。
なんせ、三日かけて完走する人がいるとかいないとか。
ゲートが閉められたってお構いなし。
なんとなくゴール地点は残っているから、そこに向かって走ればいい。
フランスのメドックをぐるり一周するこのマラソン大会は、
給水個所が20以上もある。
そして、そこに置かれているのは水やスポーツドリンクばかりではなく。
いや。
それを隅に追いやるくらいに並ぶ、酒。
そして、つまみ。
それぞれの地域のワインが並ぶ。
試飲会なのだか仮装大会なのだかマラソンなのだか。
メドックマラソンに応募したのはミュウだった。
自分は走らないくせに。
日本じゃまだ飲んじゃダメでしょ?
この半年前。
ミュウがある日、夜中に私を呼んだ。
いつもなら、薄暗い研究室に呼ぶくせに、
その日は外だった。
自転車で彼女の指定した古墳跡に着いたのは、
夜中の二時。
彼女は小高い丘のようになった古墳の上に座っていて、
私に気付くと、懐中電灯をちっかちっかさせて呼んだ。
「夜は出られないって!
おばあちゃんがきっと明日私にお仕置きする」
「出られるじゃない。
ま、座って」
座るなり渡されたのは、
見たことがないくらい薄くて大きなガラス細工だった。
風鈴をもっともっとのばして柄を付けた、
それはワイングラスだった。
ぎょぼっ
コルクを抜くと彼女はそれをだぶだぶとグラスに注いで、
自分のそれにもそれとおんなじ量、
適当な手加減で的確に注いだ。
「はー・・・・
この日を待っていたのよね・・・」
口を付けずに、付けそうになりながら、でも付けずに、
でも、付けたい、微妙なラインをかろうじて保ちながら、
彼女は言った。
「これ・・なに?」
「なんだろうね、私にもわからないわ」
薄い月明かりの中、
目を合わせながら、じっとお互いを見ながら、
そっとガラス細工に口を付けた。
息ができない。
真っ黒に見える液体がものすごいボリュームで肺の中に迫り、
私は息を詰めてそれを含んだ。
瞬間、むせて咳きこんだ。
息を吸い込んでも吸いこんでも肺に入らず、
体の中のいろんな部分がそれを拒絶するような時間が続いた。
手の中のガラス細工を壊してはならないという妙な責任感だけが支配した。
それを胸に抱いたまましばらく咳きこんだ。
けーほ
こんこん
しゅーけっけっ
はっ
はっ
はーーーくっくっ
けほけほ・・・
その間中からみつく香りから逃れようと必死だった。
ようやく落ち着くと、
ミュウはこっちを見て笑っていた。
こうやってするんだよ。
そう言って彼女はそれはおいしそうにそれを飲み下した。
手の中にある黒い液体を、私は知っている。
口にするのは初めてだった。
なんとキツイものを体に入れているんだ。
そんなもの飲んで頭おかしくならないか。
いや、きっともうおかしいんだ。
そんな軽蔑の眼で彼女を見ていると、
彼女は歌い始めた。
「何の歌?」
「葡萄農夫のうた」
「私、これ、好きになれると思う?」
「今晩、それが好きになったら、フランスに行こうか」
「嫌いでも行きたい」
「好きじゃなきゃ意味ないもん」
「なんやそれ、好きになれっていうこと??」
「なれって言ってもならないでしょう?」
「好きも何も、なんだこれって感じで・・・」
「恋の始まりはむせるところからはじまったりして♪」
「なんやのもー!」
「ほれ、そろそろ開いてきたよ、そーっとね・・・」
20キロ地点を超えるまで、各給水地点にある、もの、には手を出さなかった。
フルマラソンは数回走っているものの、
これからが正念場というときに、
紺色の自転車のミュウが現れた。
へらへらしながら、うまそうに飲んでいる。
こっちに気付いて、ひらひら手を振る。
手を上げようとして、こけた。
べしゃっと、周囲の仮装軍団は歓声をあげた。
起き上がれない。
給水所のスタッフが近寄り、何かフランス語でしゃべっているが何を言っているのかわからない。
ミュウはよろよろと近づいてきて、
「リタイア、する??」
にっこり笑ってそう言った。
そして手に持ったグラスを差し出した。
彼女の手からグラスを奪い取ってそれを一気に飲んだ。
「聞こえない」
そして再び走り出した。
走るというのか歩くというのか。
それからの15キロは地獄だった。
地獄とはまるで夢の中のようだった。
思うように体が動かず、
景色だけがまわっている。
走っているようないないような、地に足がついていないようで、こけて。
傷だらけになってゴールにたどり着いたころには、
それまで酔ってふわふわしていたのも冷め、
捨てたいくらい重い体だけがあった。
九月のヨーロッパはもう日が暮れるのも早く、
黄色い光の中に仮装行列が何かを歌い踊っていた。
ああ、彼女が歌っていたやつだ。
ぐったりと横になった私をミュウは拾って、
何も言わないで宿に帰り、
何も言わないで朝まで過ごした。
よく朝。
水を飲んで苦いと言った私に彼女はまたグラスを渡した。
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by babyperduesakura
| 2012-07-21 01:02
| 書庫。